伊藤淳子訳「心が安まる老子」

第二十七章 不善があるから善がある


よい行いというのは、
他人に吹聴するものではない。
よい言葉は、
かげりもキズもない、磨かれた玉のように
嘘偽りなく、
透明だ。


よい行いは、
計算ずくでないから、
ソロバンも計算機もいらない。
遂行する人たちの信頼関係は、
いかなる鍵でも開かない扉のように
固くロックされている。
固い絆は、
縄などなくても
しっかりと結ばれている。


行動やふるまいというのは、
自然と同じだ。
道具を使うことには限界があるが、
形のないものに限界はない。


達人は、
善のパワーを使いこなす。
どんな人に対しても
善のパワーを信じ、
引き出すことができる。
世の中には、無用な人材などいないし、
切り捨てる人材もいないから、
善のパワーで、
人を活かして使う。
ものに対しても
なにかに活かして使おうと考えるので、
いらないものや捨てるものなど
でてこない。


どんなものでも利点や活用方法があり、
捨てるものなどない。
これを襲明(しゅうみょう)という。


よい行いをする人は
人々の手本となるが、
それも、
よい行いができない人がいるから、
師となるのである。
よい行いができる人は尊敬されるが、
よい行いができない人からも、
学ぶことも多い。


よい行いは、誰もができそうで
できるものではない。
よい行いができない人がいるから、
よい行いについて、
よりいっそう考える機会が与えられる。


よい人をないがしろにしてはいけないと、
誰もが、理解している。
しかし、よい行いができない人をも愛することは、
やさしいことではない。


不善があるから、善を学べる。


善人は不善の師であるが、
不善もまた、善人の師なのだ。
だから、師として貴ばず、
そのよりどころを愛さなければ、
智者といえどもおおいに迷うだろう。
これを要妙(ようみょう)という。


  • 「心が安まる老子」の著者伊藤淳子さんからメールを頂きました

下記に掲載します。
大西様
「心が安まる老子」の翻訳者の伊藤淳子です。ブログでのご紹介、ありがとうございます。
今日(というか、さっき)テレビで、農薬散布によって、子供たちの神経回路の発達異常が起るというよう
なレポートを放映していました。農家のみなさまのご苦労を思うと、勝手に食べるだけの都会人たちの勝手な言い分は心苦しく思う部分もありますが、農業や食は、日本の未来をも担っていると考えますと、やはり有機栽培や、せめて低農薬で作っていただきたいと思うばかりです。
伊藤淳子