雨を待ち焦がれる意味

私の仕事は店の裏のミニ菜園で野菜を作ること、一日の大半を菜園のことで費やしている。水道水は一切使用せず天水の雨だけを使って野菜を作っている、雨が降らなくても家族が死ぬわけではないがタンクの雨水が少なくなると心細くなる、二三日前からタンクはほとんど空だ。
讃岐にも雨乞い祭りが伝統行事として残っている、しかし昔の人々の雨を待ち焦がれる気持ちは理解できているだろうか? 気も狂わんばかりに雨を乞うたであろう。だから、そんな祭りなんかやめろというつもりはない。ただ、ナンデモカデモ昔の祭りだと神社の物置から古いものを引っ張り出し、はしゃげばいいとは思はない、盛り上がるはずもない。
現実はどうか? 香川用水のせいで本来なら水不足のハズが県民は何の不自由もなく湯水の如く水を使用し、雨が降ろうが晴れようが一向にお構いなし、気にもしていない。こんな時代に雨乞い祭りの意味を考えてみるのも必要ではないか? 環境問題を喧しく言う前に、大切なことだと思う。
弊社の屋根に15ミリの雨が降ればタンクは一杯になる、それ以上は用水路を伝って海まで直行だ。もったいない。